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​Prologue

​Chapter.1

​Chapter.2

​Chapter.3

​Chapter.4

​Epilogue​

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Prologue

不老不死の研究…その為に造られた実験体。それが私だった。いや、私“達”だった。

 

父も母も、名前はおろか顔も知らない。そもそも存在しているかどうかすら疑わしい。冷たい培養液の中で育てられた私達は、物同然に扱われる私達は、ただの一度も愛情を与えられる事無く残虐な実験に付き合わされた。

 

それが存在意義であって、それ以外の価値などなかった。

 

切られて、潰されて、撃たれて、焼かれて、落とされて、猛毒を飲まされて……あとは何だっただろうか。不老不死の研究である以上、実験体は普通であれば絶命するような状況に幾度となく立たされた。これらを乗り越えた者…否、物が現れた時に、ようやく研究は成功に辿り着く。

 

 

そんな愚行の結晶とも言える最悪の研究は、私の存在をもって成就した。私達の地獄は終わりを迎えた。けれど喜びを分かち合う事は出来なかった。

 

だって私以外の実験体は生き残っていなかったから。

 

研究が成功したと大人気なくはしゃいでいる愚者達に、私は声を掛ける。

 

「ねえ」

 

生まれてから一度も声を発した事の無かった私は、拷問に身を投じていても一度も悲鳴を発した事の無かった私は、初めて言葉を吐いた。

 

うるさいくらいの熱狂に包まれた空間が、しんと静まり返る。声を張り上げなくて済むから有難い。笑顔を携えてこう続けた。

 

「私の番だよね」

 

 

自分でも不思議に思う。この細腕の何処にこんな力が備わっているのか。ただの不老不死ならそれ程の脅威は無いし、きっと成功したらそいつの体を解剖なりして調べて不老不死の原理を解明して自分達も不老不死になろうと思っていたんだろう。でも残念な事に、そんなに世界は甘く出来ていない。 

 

壊す。壊す。壊す。

 

憎き愚者を、憎き研究施設を、憎き世界を。

 

「化け物」

 

愚者の一人が私を見てそう言った。ようやく気付いたんだ。自分達が何をしてしまったのか。

 

――――ああ、もう遅い。何もかも。

 

 

だけどささやかな反逆は、呆気なく終わってしまった。

 

いつの間にか気を失っていた私が目を覚ますと、世界はもぬけの殻になっていた。奴らは手に負えなくなった私を、世界ごと棄てたのだと理解した。

 

 

最初の数日は八つ当たりのように建物を破壊したが、次第に虚しくなって、飽きて、やがて何もする気がなくなって、広い世界の片隅に寝そべってじっと過ごした。

 

生を受けてから窓のない牢獄のような場所で過ごし、ようやく外に出られたというのに。自由になったというのに。小さくうずくまって一箇所に留まり続けている。何をしているんだろう、私は

 

 

これからこの広い世界で、永遠にたった一人で生き続けるのか。たとえ世界が滅んだとしても、私の命が終わる事はないのか。私は選択を間違えてしまったのだろうか。にこにこと研究者達の言いなりになっていれば良かったのだろうか。そうすれば独りにはならなかったのだろうか。

 

「…誰か」

 

助けて、と続けたかった。だけどやめた。

 

助けてくれる誰かなんて都合のいい存在は、この世界の何処にも居ないのだから。

 

 

思考を続けていくにつれ、悲しみは怒りに、怒りは憎しみに変わっていった。私の中には、研究者から与えられた苦痛と奴らへの憎しみしか無い事を思い出した。

 

――――私の命は、復讐の為に使い続けよう。

 

そうすればいつか報われると、生まれてきて良かったと思える日が来ると、信じて。

Chapter1

​「や、やめろ!殺さないでくれ!」

暗い路地裏に、悲痛な叫び声が響く。 声の主の足元には漆黒の鎌が落ちていた。とっくに戦意消失しているらしく、拾おうとする素振りは一切ない。

「正気じゃない!仲間を殺すなんて、いくらあの方の命令だとしても…」

対峙しているのは、二人の死神。姿形はまさしく瓜二つだが、片割れの背丈は一回り以上小さい。

「960…あんたずっとこんな事してきたんだよな?おかしいと思わないのか?」

960…識別番号960。それが小さな死神を表す名であった。何十回何百回と同胞を殺めておきながら眉一つ動かさずに生きてきた、長きに渡り『欠陥品』を処分する役目を担っている死神殺し。

 

そんな相手に説得を試みた所で無駄だと理解していながら、『欠陥品』は恐怖を誤魔化すように口を動かし続ける。960が歩みを進める度に、体の震えは大きくなっていった。

 

「おかしい、おかしい…殺さないで…殺さないでくれよぉ…」

 

今にも泣きそうなか細い懇願は夜の闇に吸い込まれ、初めから何も無かったかのように消えていく。

 

「いやだ、死にたくな…」

 

 

 

いつもの様に仕事を終えた960は『欠陥品』の魂を懐に仕舞い、冥界へ帰還するべく飛び立った。

 

この魂を管理者に渡したら、返り血で汚れた服を着替えて、次の指示まで待機しなければ。

 

そう考えた矢先、携帯していたデバイスが鳴る。取り出してみると、全死神に向けて管理者からメッセージが届いていた。…要約すると、忙しいから報告諸々は後にしてくれという事らしい。

 

タイミングが悪いが、仕方がない。『欠陥品』のお喋りに付き合い過ぎた自分にも非がある。そう割り切ってから、960は時間潰しになるものを探し始めた。

 

 

 

ふと、大きな屋敷が目に留まる。ここら一帯で一番敷地が広いのではないだろうか。何となしに降り立った豪華な庭は、ユリの花が咲き誇っていた。

「あら、こんばんは。お客さま?」

 

鈴が転がるような可憐な声に振り向くと、白い髪の小柄な少女が立っていた。如何にもお嬢様然とした出で立ちだ。

 

「…お客様?」

 

先程『欠陥品』に対して一言も発さなかった960は、少女の言葉を復唱する。それだけでなく。

 

「俺の事を言っているのか」

 

と、問いかけた。月の光を受けて輝く少女の瞳が瞬く。少女はきょろきょろと辺りを見回した後、小首を傾げて不思議そうに答えた。

 

「ここには、わたしとあなたしか居ないじゃない」

 

960は考える。死神は人間には見えないのではなかったか。何故、この少女は自分を視認出来るのだろうか。

 

「わたし、リリィ。あなたは?」

 

「へっ?」

 

考えている間に話し掛けられた960は、意表を突かれ生まれて初めて間抜けな返答をする。話を聞いていなかった事を察したのか、少女は再び口を開いた。

 

「わたしはリリィよ。あなたのお名前も教えてくれる?」

 

「…識別番号960」

 

「しき?」

 

「960でいい」

 

「きゅーろくまる、さんね」

 

当たり前のように人間に対して名乗ってしまったが、これで良かったのだろうか。生じた事の無い思考回路に戸惑いつつ、満足そうに微笑むリリィから目を離せずにいると、急に彼女の表情が曇った。

 

「いけない。960さん、怪我してたの?わたし、気付かなくってごめんなさい」

 

どうやら返り血を怪我と勘違いしているらしい。

 

「これは」

 

「中で手当てしてあげる!」

 

否定する間もなく手を引かれる。繋いだ手の温もりと、死神を見るだけでなく触れる事まで出来る異例な事態。それらに呆気に取られ、960は大人しく屋敷へと連行された。

 

 

「みんなもう寝ている時間だから、しずかに行きましょ」

 

口元に人差し指を添えたリリィが、コソコソ話をするような声量で言う。960は怪我をしていない事を伝えるという選択肢を選ばず、素直に頷いた。

 

だって怪我をしていないと分かれば、リリィは自分から興味を失ってしまうかも知れない。

 

 

 

960の少し前を進むリリィは、カーペットの敷かれた長い廊下をちょこちょこと歩く。歩き慣れていないのか時折躓くので、その度に転ばないよう960が体を支えてやると、リリィは恥ずかしそうに「ありがとう」と笑った。

 

960は思い返す。今まで自分が触れてきたものは、生まれて暫くの間世話になった培養液や仕事道具の鎌を始めとした、冷たい無機質なものばかりだった。

 

「(リリィは、温かいんだな…それに)」

 

少しでも力の加減を間違えたら呆気なく壊れてしまいそうな程に、儚い。

 

 

 

そうこうしている内に目的地に着いたのか、リリィはとある部屋の前で立ち止まった。大きな扉を音を立てないようにそっと開いて、960に声をかける。

 

「さあどうぞ」

 

960が足を踏み入れたのは、白を基調とした清潔感のある部屋だった。小さなベッドから察するに、恐らくリリィの寝室だろう。しかしこれはまるで…

 

「病院みたいだ」

 

「えっ!?ええっと…褒め言葉よね?ありがとう!」

 

リリィは一瞬困惑した表情を浮かべたが、すぐに気を取り直したのか慣れた様子で戸棚に近付き、救急箱を取り出す。それから入口に戻り、960の手を取ってソファに腰掛けた。

 

「遠慮せず、座って」

 

突っ立ったままだった960は、リリィの気遣いでようやく腰を下ろす。

 

「礼儀正しいのね」

 

実際はどうすればいいのか分からず固まっていただけだったが、リリィは物事をプラスに捉えるのが得意なのだろう。それはさておき、960にとって問題はここからだった。

 

「それじゃあ手当てするから、傷口を見せて」

 

「何故こんな時間に一人で庭に居たんだ?」

 

怪我していないのがバレたら帰らされてしまう。その一心で、960は質問を繰り出す。内心と裏腹に平然とした顔の960に唐突に話を逸らされたにも関わらず、律儀なリリィは照れ臭そうに答えた。

 

「実は、お昼寝をし過ぎてしまったの」

 

…リリィは病弱で屋敷から出た事がほとんど無く、体調が良い時だけ庭を散歩しているらしい。廊下での歩き方が何処かぎこちなかったのは、運動する機会に恵まれていないからなのだろう。

 

「それで、お散歩すれば疲れて眠れるかなと思って」

 

「成程」

 

「あなたも眠れなかったの?」

 

「いや、俺は寝なくても平気だ」

 

死神に睡眠は必要ない。それだけでなく、食事もだ。必要がないからした事もないし、死神からして見れば人間は不便な生き物としか言いようがなかった。

 

「そうなの?いいな…沢山時間が使えるから、色んなことができるわね」

 

リリィは目を輝かせたが、960がやる事は仕事と待機の二択だった。今のような状況は異例中の異例だ。

 

「わたし、本を読むのが好きなの。素敵な世界を見せてもらえるから」

 

「本…」

 

あの方…管理者がよく暇潰しと言って手にしている物の事か、と960は思い出す。自分では触った事すら…それどころか触ろうと思った事すら無かったが、リリィが目を輝かせて語る程なのだから、きっと良いものなのだろう。

 

「(今度、俺も読んでみよう)」

 

「あらいけない!お話に夢中になっちゃった…ごめんなさい。わたしお友達が居ないから、つい楽しくなっちゃって」

 

「構わない」

 

「怪我は大丈夫?」

 

「大丈夫だ」

 

「痛くない?」

 

「ああ」

 

「そう…」

 

リリィは暫く心配そうにしていたが、けろりとした様子の960に安心したのか、次第に表情が晴れていった。

 

それにしても血塗れの侵入者に親切に接してきた辺り、リリィは相当な世間知らずなのかもしれない。見ているとコロコロ表情が変わって楽しいが、同時に放っておけないような危うさも秘めている。

 

――――960は、無自覚の内にリリィに惹かれていた。

 

 

と、不意に端末が鳴る。管理者からだ。用事が終わったらしい。

 

 

「そろそろ帰らないと」

 

960が呟くと、リリィは寂しそうに視線を落とした。何故だか胸が痛む。感じた事の無い違和感を覚えながら、960は訊ねた。

 

「また来ても、いいだろうか」

 

「また来てくれるの?」

 

「リリィが良いと言うなら」

 

「勿論、良いに決まっているわ!」

 

弾けるような笑顔に、胸が高鳴る。

 

「じゃあ、また此処へ来る」

 

「約束ね」

 

リリィは小指だけ立てた手を960に差し伸べる。960が見様見真似で同じようにすると、リリィは小指を絡ませて微笑んだ。

 

「…待ってるわ」

 

 

 

その夜を境に、960は仕事の隙を見つけてリリィの元を訪れた。重ねた日々は960を少しずつ変えていった。

 

 

雲ひとつない天気の良い日に、リリィが言った。

 

「あなたの瞳は、綺麗な青空の色ね」

 

 

960が飛べると分かった時、リリィは言った。

 

「あなたは、自由に空をかける鳥のようね」

 

――――クロウと呼んでも、いいかしら。

 

 

リリィと過ごして手に入れたのは、かけがえのない宝物だった。名前、感情、そして…誰かを愛する心。

 

識別番号960と呼ばれる死神は、冷酷で無慈悲な同胞殺しは、リリィの前でだけはただのクロウだった。それがクロウは嬉しかった。彼女が寿命を全うするまで見守りたいと、いつしか考えるようになっていた。

 

 

しかし、そんな幸せな日々が長く続く事は無かった。

 

管理者から送られてきた突然のメール。リリィの顔写真と共に添えられた文章を理解するのに、真っ白になった頭では随分と時間がかかった。 

 

「特例…?殺せ…?リリィを…?」

 

理由は何処にも書かれていない。殺せ、ただそれだけのシンプルな命令があった。

 

理解出来ない。まだ寿命が来ていない人間を殺せだなんて。しかもその対象が何の罪も犯していないあのリリィだなんて。納得いかない。

 

「…リリィ」

 

小さな死神は残酷な現実の中、独り、無機質な端末に浮かぶ愛しい少女の名を呼んだ。

​Chapter.2

クロウは待機部屋を飛び出した。

 

死神として命令に背く訳にはいかない。管理者の言葉は絶対だ。管理者の手となり足となり忠実な駒として従う事こそが生きる意味で、自分の意思を持つなど許されない。

 

――――しかし。

 

リリィから貰った感情が、与えられた命令を拒絶した。思考せず淡々と従ってきたクロウにとって、生まれて初めての事だった。

 

 

二度と同じ時間を共に出来なくなる。

それが死だと、クロウはよく知っていた。それは自分が与えてきたものだったからだ。数え切れないような長い年月、後戻り出来ない程に繰り返した。

 

数多の命を奪った事実は何をどうしたって永遠に拭えない。たとえ洗って見た目が綺麗になった所で、この手はとっくに『欠陥品』と呼ばれた同胞達の血に染まっている。

 

今更誰かを助ける資格がないのは分かっていた。他の誰でもない、自分自身がよく分かっていた。それでも。

 

 

無事を祈りながら降り立ったリリィの屋敷は静まり返っていた。もうとっくに深夜だ。皆眠っているのだろう。

他の死神の気配が感じられない事にひとまず安堵し、クロウはいつもの場所…彼女の部屋を目指した。

 

暗い廊下を駆け、勢いのまま扉を開く。

 

「リリィ!」

 

ベッドに腰掛けていたリリィと視線が合った。どうやら、就寝前の読書を楽しんでいたらしい。

 

「こんばんは、クロウ」

 

リリィは本に栞を挟みながら微笑む。そろそろ寝る予定だったのか、いつもより眠たげな瞳。しかしその目は、眠気が吹き飛んだかのように見開かれた。

 

「クロウ!?ど、どうしたの!?」

 

突然抱き締められ、リリィは戸惑いの声を漏らす。クロウは何か返さなくてはと思うも、言葉が出てこなかった。胸には安堵が満ちている筈なのに、どうしてか震えが止まらない。

 

「何か、つらい事があったの…?」

 

異変に気付いたリリィはそっと抱き締め返して、落ち着いた優しい声で訊ねる。クロウはただ頷くばかりだった。

 

「そう…」

 

リリィは悲しそうに呟き、口を閉じる。

 

自分から話してくれるまで待つという姿勢の現れ。何があったか聞かないのも、下手な慰めを続けないのも、全部クロウを傷付けない為。そんな彼女の意図を汲めるようになったクロウに、無慈悲な死神殺しの面影は見当たらない。

 

 

部屋の振り子時計の針が時を刻む音は、猶予が短くなっていく証。故に名残惜しくもリリィから離れ、クロウは彼女の目を見据えた。

「リリィ、どうか落ち着いて聞いて欲しい。君は…」

 

余りにも非情な事実に一瞬躊躇うが、正直に告げる。

 

「君は、命を狙われている」

 

急にそんな事を言われても、誰だって悪い冗談にしか思えないだろう。 しかしリリィは、笑うでもなく怒るでもなく呆れるでもなく、真剣な様子で頷いた。

 

「信じるわ」

 

断言。クロウがそんな嘘を吐く筈が無いという、確かな信頼が込められた言葉。

 

「…有難う」

 

クロウが感謝を口にしたその時、デバイスが鳴る。目をやると、一斉送信のメールが届いていた。

 

『デバイスの不調でターゲットの居場所の特定が出来なくなっていたようだ。今しがた復旧作業を終えたので、速やかに任務を遂行するように』

 

管理者からだ。まずい。死神達が間もなく此処に来る。

 

「行こう、リリィ!もう時間がない!」

 

クロウは窓を開け、月を背に立ち、リリィに手を差し伸べた。風が強いせいで、白いカーテンが音を立てて暴れた。

 

頷いたリリィは、恐らく両親へのメッセージであろう走り書きをした後、ベッドの下からカバンを取り出す。そして、迷わずクロウの手を取った。

 

「絶対に、君を守る」

 

小さな手をそっと握り、華奢な身体を抱き寄せ、クロウは最愛の少女にそう誓った。

 

 

デバイスで場所の把握をされている以上無駄な抵抗かも知れないが、空を飛ぶよりも地上の方が目視されにくい筈。そう判断したクロウはリリィを抱え、移動を続行する。

 

「(せめて昼間なら良かったのだが)」

 

対象ではない人間を巻き込んでまで襲って来ないと断言は出来ないが、人混みに姿を紛れさせる事で多少なりとも何かしらの効果を発揮する可能性があった。しかし深夜は出歩く人間が居ないに等しい為、無理な話だ。

 

ぼんやりとした街灯に照らされながら、静寂に包まれた夜の街を駆ける。

 

 

暫くの後、クロウは理由を話さずにいつ終わるとも分からない逃避行を続ける訳には行かないと思い立ち、死神の事や管理者の事…自分が今まで行ってきた任務を、洗いざらいリリィに話した。

 

静かに相槌を打っていた彼女は、話し終えたのを察すると口を開く。

 

「クロウ。わたしをかばってしまったあなたは、どうなってしまうのかしら…」

 

…人間の本性は危機的状況になると表出されると言う。しかしリリィは事情を知って尚、命を狙われている自分の身を差し置いて、真っ先にクロウの身を案じたのだった。

 

「俺の事はいいんだ。特例の理由を聞かされていたとしても、必ずこうしていた」

 

「……わたし、」

 

リリィの言葉を遮るかの様にデバイスが鳴る。今度はメールではなく、着信だ。クロウは思わず息を飲む。

 

「もしかして、管理者さん…?」

 

リリィの予想は正しかった。クロウはデバイスの画面を凝視する。

 

――――嫌な予感がした。出てはいけない気がした。しかしこれはチャンスでもある。何故この特例を発令したのか問いただすのは、今しかない。

意を決するも、無機質に鳴り響いていた着信音は無慈悲にぷつりと切れた。恐らく管理者はいつも3コール以内に出ていたクロウが直ぐに出なかった事で、何かを察したのだろう。

 

折り返そうとしたが、すぐさま届いたメールの内容で断念した。切れたのは電話だけではなく管理者との縁もだという事を理解するのに、十分だった。

 

『識別番号960がターゲットと共に逃走している模様。これより識別番号960を『欠陥品』と見なす。早急に裏切り者を始末しろ』

 

当然の結果だった。特例を無視するどころか、ターゲットであるリリィを庇う行動に出ているのだから。仮に先程の電話に出ていたとしても、言い分を聞き入れては貰えなかっただろう。

 

覚悟はしていたが、それでもクロウの胸はジクリと傷んだ。

 

あんなに月日を重ねたのに、与えられた任務に忠実に従っていたのに、管理者にはクロウへの信頼等生じていなかったという事だ。だからこんなにも簡単に切り捨てる事が出来たのだろう。

 

…こんな風に胸が痛むのは、管理者を心の何処かで信用していたからなのか。しかしその想いは手放す他ない。敵となってしまった、今となっては。

 

「クロウ、大丈夫?どこかで休憩しましょう」

 

「…俺は疲れない身体だから平気だ」

 

「疲れてるのは身体じゃないわ」

 

今にも泣きそうな顔で、じっと見つめられる。折れるつもりはないらしい。やむを得ずクロウは了承し、路地裏に足を踏み入れた。

 

 

「こんな時にごめんね…でも、必要なことだと思って。座りましょう、クロウ」

 

「分かった」

 

リリィの提案に素直に従い、クロウは腰を下ろす。…リリィを所謂お姫様抱っこしたままで。

 

「クロウ…あの…」

 

「どうした?リリィ」

 

「わたしのことは離してくれてもいいのよ?重たいでしょ?」

 

「羽みたいに軽いが」

 

「あ、ありがとう!えっと…でもね、そうじゃなくてね…」

 

いつも冷静で大人びているリリィが、俯いて恥ずかしがっている。それが何だか新鮮で、可愛らしい。クロウがリリィを一層抱き締めると、彼女は観念したのか身を預けてくれた。

 

「こうしていると安心する…もう少しだけ、付き合って欲しい」

 

「…う、うん」

 

リリィの鼓動が速くなった。緊張しているのか、照れているのか、それとも両方か。愛しさが込み上げると共に、彼女を失いたくないという想いが強まる。

 

「…クロウ。さっき言いかけたこと、言ってもいい?」

 

「ああ」

 

「わたし、クロウに守ってもらえてうれしいの。物語に出てくるおひめさまになったみたい」

 

「そうか」

 

「でも…クロウが傷つくのは嫌」

 

身体の事、だけではないだろう。きっと心も。

 

「わたしのせいで、クロウが幸せになれないのは嫌」

 

所属していた組織を裏切り、結果命を狙われている。当然、傍から見れば幸せではないのだろう。だけど違う。

 

「…リリィは、俺に幸せをくれた」

 

クロウの呟きに、リリィが俯いた顔を上げる。その拍子に、瞳に潤んでいた涙が一粒、ぽたりと落ちた。

 

「リリィが居てくれたら、俺は幸せになれる。だから俺も、君に傷ついて欲しくない」

 

「…同じことを考えていたのね」

 

リリィは嬉しそうに微笑んでくれた。随分久しぶりに笑顔を見たように感じる。しかし、喜びも束の間。

 

「識別番号960及び特例対象を確認」

 

淡々とした機械的な声。音もなく現れた死神から発せられたものだった。

 

「クロウにそっくり…」

 

リリィは思わず驚愕の声を漏らす。背丈は違うが、顔のパーツも声も同一と言って過言ではない程に似ているのだから無理もない。

 

「これより任務を遂行す…」

 

死神が言い終える前に、クロウはその首を刈り取った。

 

情に訴えようにも訴える情がない相手に話し合いは意味を成さない。故に即座に処分するという判断を取り、先手を打ったのだ。

 

『欠陥品』ではない死神を独断で手に掛けたのは初めての事だった。他人に言われてやるのと、自分で決めてやるのでは責任が違う。

 

だが、覚悟を決めたクロウの瞳に揺らぎはなかった。これが選んだ道だ。リリィを守るという事は、罪を重ねていくという事。

 

――――それでも構わない。

 

 

胴体から離れた首が地面に落ち、その後身体の方も膝から崩れ落ちた。クロウは鎌を仕舞い、リリィに声を掛ける。

 

「驚いただろう」

 

振り返る勇気はなかった。拒絶されるかもしれない、と思った。事前に話はしてあったとはいえ、実際に見るのと話を聞くのでは違ってくる。同じ顔をしたかつての同胞すら迷いなく殺す自分を、リリィは受け入れてくれるのだろうか。

 

「これから何度でも同じ事をする」

 

長らく沈黙していたリリィは、やがてクロウの手をぎゅっと握った。

 

「わたし、最低だと思う。本当なら、こんなことしないでって…そう言わなきゃいけない」

 

声も手も、震えていた。

 

「でも…でも…まだ、死にたくないの」

 

当たり前の気持ちだった。普通の感性なら理由も分からず殺される事を良しとする筈がない。しかしリリィが死にたくない理由はそうではなかった。

 

「だって、もっとあなたと一緒に生きたい」

 

――――クロウが理由だった。

 

きっとリリィは誰かの犠牲の上で生き長らえる事を望むような人間ではなかった。しかしクロウの存在が、考え方を変えてしまった。変えざるを得なかった。共に生きる為に。生きたいが為に。

 

クロウが抱き締めると、リリィはぽろぽろ涙を零しながら声をあげて泣いた。

 

拒絶されると思っていたのは、リリィも同じだったのだ。醜い思考を抱いてしまった自分を、クロウが受け入れてくれないかもしれないと怯えていた。

 

――――ああ。特例なんてものが無ければ、リリィは罪悪感を味わい、己を苛む事はなかったのに。

 

「それに、ね、怖かったの。死神さんが、クロウにそっくりだから…死神さんが…死んでしまった時…このままじゃ、クロウもいつか、こうなってしまうかもって…」

 

「…大丈夫、俺は負けない。君を置いて死んだりしない」

 

クロウは屈んでリリィと目線を合わせ、彼女の涙を拭う。

 

リリィが泣いているのを初めて見た。胸が苦しくなる。二度とこんなに辛い顔をさせたくない。絶対に彼女を守り抜いて、温かなあの生活を取り戻してみせる。

 

「約束だ」

 

クロウは小指だけ立てた手を差し伸べる。かつてリリィがそうしてくれたように。彼女は、小指を絡ませて儚げに微笑んだ。

 

「うん…約束ね」

 

 

――――しかし、逃避行は長くは続かなかった。長く続ける訳にいかなかった。

 

クロウにとって戦闘は苦ではない。死んだ人間の魂を回収していただけで、戦闘経験を積んでいないに等しい死神が相手だ。束にでもならない限り、殺す為に生きてきたクロウに敵う筈がない。赤子の手をひねるようなものだった。

 

問題は、リリィの生命維持だった。

 

食事も睡眠も必要ないクロウには分からなかったが、人間は死神と比較にならない程に繊細で脆い。出発時にリリィが持参したカバンには着替えや非常食が入っていたが、有限である以上いずれ無くなってしまう。

 

屋敷に戻って補充しようにも、ターゲットの住処がマークされていない筈がない。大勢の死神に不意に襲われれば、いくらクロウでもリリィを守りきれる保証はなかった。

 

店で買うにしても、籠の中の鳥のような暮らしをしていたリリィには金銭の持ち合わせがないし、非常時だからと言って盗む訳にもいかない。

何より、命を狙われている緊迫した状況で、ベッドもないのに良質な睡眠を取れる筈もない。

…そういった様々な要因が重なり、元々病弱だったリリィは熱を出してしまった。このままでは消耗し続けるだけで、下手をすればリリィが死んでしまう。

 

 

「リリィ…すまない…」

 

高熱にうなされるリリィを前に、クロウは為す術なく項垂れるしかなかった。病と縁が無かったクロウには、治療の仕方が分からない。一応医者の存在は知識として知っているが、人間に視認されないクロウがリリィを連れて行った所で騒ぎになるだけだ。

 

根本的な解決を図る為に管理者の元へ行こうにも、何が待ち受けているか分からない冥界にこの状態のリリィを連れて行く事は出来ない。身の安全を考慮したら、当然人間界に置いて行く事も出来ない。

 

どうしようもなく、途方に暮れる他なかった。

 

「(俺が早くあの方の元へ行けば、こんな事態にはならなかったのに)」

 

悔やんでもとうに遅いが、クロウは自分の無計画さを呪った。

「リリィを助けてくれ…誰か…」

切実な独り言。

 

それに返答があった。

 

「いいよ」

 

クロウは勢い良く顔を上げる。今まで微塵も気配が無かったのに、目の前に少女が居た。声の主は張り付いたような笑みを浮かべながら、ふわふわと宙を漂っていた。

 

漆黒のドレスが生気のない真っ白な肌を際立たせている。青い瞳は暗く、重く、光の届かない深海を連想させる。リボンで束ねられたツインテールは重力を無視するかのようにうねっている。特筆すべきは、額から伸びる水で出来た角だ。

 

明らかに人間ではない。しかし、死神でもない。

 

「君は一体…」

 

「ボク?通りすがりの女神様だけど?」

 

「そ、そうか」

 

「何言ってんだこいつみたいな顔するなよ。事実なのにな。あはは!ウケる」

 

女神を名乗る少女はケラケラと笑ってから、ふと我に返った様に再度口を開いた。

 

「キミ、この子を助けたいんだろ?」

 

「助けたい」

 

間髪入れずに答えるクロウに、少女はにんまりとした笑みを見せる。見透かしたような表情だった。

 

「見ず知らずのボクに救いを求める程に追い詰められているのに、なぁーんにも出来ない…さぞかし悔しいだろうねえ」

 

反論の余地も無く黙り込むクロウに、少女はますます笑みを深くする。

 

「んふ、良い顔するね。キミにそっくりなあの子も​、こんな顔をするのかな」

 

意味深な言葉の後、手が見えない程に長い袖の中で少女が指を鳴らす。その音を境に、リリィの呼吸が落ち着いた。瞬く間に熱が引いていくのが分かる。

 

――――奇跡が起きた。

 

クロウは咄嗟に少女へお礼を言おうとしたが、少女は跡形もなく消えていた。初めから誰も居なかったかのように。

 

「…有難う」

 

穏やかな寝息を立てるリリィを抱き締め、クロウは感謝を口にする。直接言う事は叶わなかったが、何故だかあの少女とは近い内に会える予感がした。

 

 

無事に目覚めたリリィは、病み上がりで体調が万全とは言い難い。とはいえ改善させる手段がない以上、このままでは元の木阿弥だ。一刻を争う。

 

「冥界に行こう」

 

クロウの提案の意図を察し、リリィは頷いた。

 

「管理者さんに会うのね」

 

「ああ。話がしたい」

 

クロウのデバイスは、とうに接続が切れていた。直接会う以外、管理者を説得する事は出来ない。

 

「リリィの特例を撤回して貰う為に」

 

相当危険なのは考えるまでも無かった。簡単な事ではない。特例を撤回させるなんて、それこそ奇跡でもない限り実現不可能だろう。無謀なのは分かっていた。けれど。

 

「そうする他ないんだ」

 

「わたしも、それが一番だと思う」

 

リリィの同意に背中を押され、クロウは決意を新たにする。

 

――――全て仕組まれた事だとも知らずに。

​Chapter.3

リリィを連れ、クロウは長らく不在にしていた故郷に帰還した。

「ここが…冥界…」

周囲を見渡すリリィの表情は困惑に染まっている。それも当然だった。人間界とこれといった差が無く、鏡写しの様に瓜二つなのだから。

 

しかしある一点において、明確な違いがあった。

 

「とても静かね…」

 

そう。無機質で生命の気配がない、がらんどうなのである。人間界と同じ建物が立ち並んでいるが故に、尚更リリィには不気味に思えるだろう。

 

クロウがリリィの手を握ると、彼女はほっとした顔で微笑んだ。

 

「クロウが居てくれて、よかったわ」

 

「そうか」

 

「ええ。もし一人だったらと思うと…」

 

リリィは首を軽く振って、言葉を途切れさせた。心細いと口にして、心配をかけまいと思ったのだろう。

 

「ごめんね、大丈夫よ。行きましょう」

 

「…ああ」

 

クロウはリリィを抱え飛翔する。目指すのは、堂々とそびえ立っている高い塔だ。

 

 

リリィの不安を少しでも解消出来ればと、クロウは冥界について知る限りの事を話した。

 

死神と管理者しか此処には居ない事。

死神の特性上、人間のような文化を営む必要が無く、本拠地以外の建物は放置されている事。

まるで使っていた誰かが忽然と居なくなってしまったかのような状態の物が溢れている事。

人間界と似ている理由は分からない事。

 

口にして初めて、クロウは自覚した。長く生きてきたのに、自分の住んでいた場所なのに、違和感としか言えない不可解な要素が存在していると。

 

 

話を聞き終えたリリィは、腑に落ちない様なもどかしい様な、複雑な顔で黙り込んでしまったクロウに声を掛ける。

 

「管理者さんなら、何か知っていそうな気がするわ」

 

リリィの言う通りだ。冥界で一番長く生きているのは紛れもなく管理者なのだから。 

――――とはいえ、教えてくれる可能性は限りなく低い。

 

「まずは仲直りね」

 

今の状況は決して平和に形容するものでは無いと、聡いリリィは分かっている。それでも、管理者との関係の修復は厳しいと考えているクロウを励ます為、仲直りと例えたのだろう。

 

「…仲直り、出来るだろうか」

 

「お互いに仲良くしたいという気持ちがあれば、何度でも関係は修復できるはずよ」

 

「お互いに…」

 

管理者に裏切り者と見限られた時、胸が傷んだ。怒りではなく悲しみが広がった。それは管理者を大切に思っていたが故だ。敵になってしまったのに寂しくなるだけだからと気持ちを手放そうとしたものの、後ろ髪を引かれる想いがあって、覚悟を決めた筈の今でも結局切り離す事が出来ていない。

 

管理者の命令に背いたのだから、嫌われて当然だ。理由はどうあれ此方に落ち度がある。しかしリリィを守りたい以上、謝って済む話でもない。それでも…諦めたくない。

 

「俺は、我儘なのかもしれない」

 

好きな物と嫌いな物なら、どちらか選べと言われても簡単だ。では好きな物と好きな物で、どちらか選べと言われたなら?

 

選択肢は二つある。選べないと諦めるか、仕方なく片方を選ぶかだ。しかし掟破りの三つ目が…どちらも選ぶという選択肢がある。クロウが選びたいのは、その三つ目だった。

 

困った様に呟かれた言葉に、リリィはくすりと笑った。

 

「クロウは、もっとわがままでも良いと思うわ」

 

「…有難う」

 

文面では突き放していたが、管理者がもしクロウと同じ気持ちで居てくれているのなら…きっと可能性は0じゃない。

 

決意を改め、辿り着いた塔…死神の本拠地の扉を開く。

 

 

足を踏み入れた二人を待っていたのは、死神達だった。クロウとリリィを視認した途端、無言で臨戦態勢に移行する。道中で妨害が無かったのは、束になって仕留めるつもりだったからなのだろう。

 

クロウはリリィを背に庇い、武器を構えた。

 

管理者に会うには、死神を一掃する必要がある。話し合いの場に水を差されてしまうからだ。

 

「少し待っていてくれ」

 

クロウは前を見据えながら、リリィに声を掛ける。しかし返事は無かった。不審に思って振り向くと、リリィは冷たい床に崩れ落ちていた。

 

「リリィ!」

 

死神達には目もくれず、クロウはリリィを抱き起こす。

…顔色が優れない。病み上がりだった為か、体調の悪さがぶり返したのだろう。言葉を発する余裕も無いようで、眉を寄せ固く目を瞑っている。

 

動けない彼女を数多の死神の居る空間に無防備に寝かせておく訳にはいかず、クロウはリリィを片手で抱きかかえながら戦闘に臨む事となった。

 

 

――――当然、状況は劣勢。

 

攻撃を捌く事で精一杯だった。身を呈して庇い、辛うじてリリィが怪我を負う事は避けられているが、一向に死神を倒せない。得意とする小柄な体躯を活かした動きを制限されている以上、経験の違いも何もあったものではなかった。今の二人は、死神にとってただの的だ。

 

「クロウ…このままじゃ、あなたが…」

 

リリィのか細い声は、泣いている様に震えていた。今まで圧倒的な実力差によって傷を受けた事のなかったクロウが、自分のせいで血を流しているのだから無理もない。

 

「大丈夫だ」

 

クロウは断言する。目の光はまだ消えていない。リリィを守れなければ掲げた目標が潰える以上、諦める訳にはいかなかった。

 

「(だが…)」

 

迎え撃つ事は出来ても、致命傷を与える為の一手を打つ前に距離を取られてしまう。これでは此方側が一方的に消耗させられるだけで、勝ちには至れない。

 

そんな絶体絶命の中。

 

 

「やあ、また会ったね」

 

 

クロウの目の前に突如現れたのは、以前リリィを助けてくれた不思議な少女だった。

 

「君は…あの時の…」

 

「ボロボロになりながら頑張る姿、とっても胸が踊ったよ!でもでもでも放っておいたらキミ達死んじゃうでしょ?それだともっと面白いものが見られなくなっちゃうしさぁ」

 

少女はにんまりと笑いながら、楽しそうに語る。まるで緊迫感が無く、此処が戦場であるという事を度外視した様な振る舞いだ。

 

死神達は異変に動じず、二人の前に居る少女諸共攻撃するべく鎌を振りかざす。それを見たクロウは彼女の言葉の意味を理解出来ないまま、迫る危機を警告した。

 

「危ない!!」

 

忠告を聞いていたのかいないのか、少女は避ける素振りもなく、呆気なく全身をバラバラに両断された。

 

――――された筈だった。

 

少女の体から血が噴き出る事はなかった。まるで水を切ったかの如く元通りになっていたのだ。

 

「さて、話を戻そうか」

 

何事も無かったように少女は微笑む。クロウは、背中に一筋の汗が流れるのを感じた。得体の知れない物を前にして、胸に恐怖が広がっていく。気を失ってしまったリリィを抱き寄せ、気付けば自分達を守るように鎌を前に掲げていた。

 

目の前に居る少女は、只者ではない。

 

「あはは!怖がらなくていいんだよ!ボクはキミ達と敵対するつもりはないし、むしろ守ってあげたいと思っている」

 

「…何が目的なんだ」

 

クロウの問いに、少女は張り付いた様な笑みを浮かべながら答えた。

 

「面白い物語が見たい」

 

クロウは思わず、怪訝な顔を浮かべる。少女の話す内容は自分達とチャンネルがズレている様に思えてならない。

 

「…だからね、重要なピースであるキミ達が欠けてしまっては困るんだ」

 

意味が理解出来ずに困惑するクロウが面白かったのか、少女はくすりと笑った。漆黒のドレスを優雅にふわりとはためかせながら振り返り、死神達に言い放つ。

 

「もういいよ」

 

その瞬間。一体何が起きたのか、死神達が消し飛んだ。髪の一本も残らなかった。まるで初めから何も無かったかの様に、存在を消されてしまったのである。

 

絶句するクロウに、少女は満面の笑みで両手を広げ高らかに言った。

 

「さあさあ、先に進むといい!あの子は今、地下に居る!」

 

 

 

リリィを背負い、クロウは地下へ続く螺旋階段を降りる。

地下にあるのは培養施設だ。産み出された死神が生後暫く過ごす場所で、クロウも例外ではなかった。液体が満たされた培養器の中で、機械に繋がれながらぼんやりと過ごした。他の死神と違い一向に体の成長が進まなかった事で、ガラス越しに見た管理者が頭を悩ませていた姿を、今でも覚えている。

 

失血により朦朧としながら、管理者との出来事を思い出す。

 

人間が嫌いだ。と、管理者は時折零していた。感情が無かった当時の自分は、何があったのか聞いた事は一度もない。それが管理者にとっては嬉しい反応だったのだろう。無反応で人形の様なクロウを、よく自室に呼んで傍らに座らせていた。

 

本を読み聞かせてくれる事もあった。ただの気紛れだったのだろうが、その時の姿は何処か優しくて、声も何だか柔らかく感じた。思い返せばその感情は、居心地が良かったと言えるものだった。

 

管理者はいつも笑顔だった。どんな時も、笑顔を絶やさなかった。笑っていなかったら、まるで不幸みたいだろう?と話す様子は、何処か哀しくて、無理をしている様にも思えた。

 

それから――――

 

 

「…ああ。来たんだね、960」

 

 

久しぶりに耳を撫でる声に、ハッとなる。気が付けば、階段を下りきっていた。

 

「背中に居るのは、特例のターゲットかい。わざわざ連れて来てくれたんだね」

 

裏切り者と見限られる前の、クロウをお気に入りと公言していた頃と同じ接し方に、拍子抜けする。

 

「そうか、そうか…そういう事だったのか。憎い小娘を私自身の手で殺せる様に配慮してくれたんだね。960、私はお前を誤解していたようだ」

 

管理者は見慣れた張り付いた様な笑みで、事前に用意していたのかと思える程に流暢に言葉を紡ぐ。

 

「やっぱり960は、裏切り者ではなかった」

 

何度も何度も自分の中で言い聞かせたのだろう。960は裏切り者ではないと。960を…クロウを信用しているから。信用したいから。

――――管理者も、仲直りをしたいと思ってくれている。

しかし、それはリリィを引き渡すのが大前提だ。関係の修復はリリィを殺す事でしか成立しない。それでは意味が無い。

 

「960、ターゲットを此方に」

 

「出来ません」

 

管理者の申し出を即座に拒否した事で、管理者はクロウの変化を感じ取ったらしい。頷く事しかしなかったクロウが、首を横に振ったのだから。

 

「…960、一つだけ言っておく」

 

それは管理者が与えた最後のチャンスだった。

 

「私は私の命令を聞く忠実な駒しか要らないんだよ」

 

冷たい笑み。クロウはそれに臆する事無く、再度同じ言葉を伝える。

 

「出来ません」

 

「何故?」

 

「失いたくないからです」

 

管理者の動きがぴたりと止まった。瞬き一つせず、壊れたロボットの様にクロウを見つめている。

 

 

「…俺は、リリィが好きです」

 

 

途端、培養施設にある無数の培養器が甲高い音を立てて弾け飛んだ。衝撃で生じた突風に乗って、割れた破片が縦横無尽に暴れる。勢い良く流れ出た培養液が床を満たしていく。

 

クロウは咄嗟にリリィに覆い被さり、彼女を庇った。無事を確認し、今の出来事で目を覚ましたリリィを守る位置取りで、破壊の出処である管理者に向き直る。

 

「ごめんね、960。聞こえなかったよ。もう一度言って貰えるかな?」

 

「何度でも言います。俺はリリィが好きです」

 

「可哀想に…お前は小娘に誑かされているんだよ、960。予定より早いがメンテナンスをしようか。二度と馬鹿げた事を言えない様に」

 

クロウは反論しようとするが、背後から小さく名前を呼ばれて踏みとどまった。振り向くと、瞳に涙を浮かべたリリィと目が合った。

 

「わたしも…わたしもあなたが好きよ、クロウ」

 

大切に想っていると、言わなくとも察してくれていただろう。とはいえ、それはあくまで憶測だ。クロウ自身の口から好意を伝えられた事で、ようやくリリィは確信に至れた。先程の言葉は、その返答だ。

 

同じ想いを抱いていた事への嬉しさからか、クロウの瞳からも自然と涙が零れた。

 

 

「クロウって誰」

 

 

管理者は、知らない物を見る様な視線でクロウを見ていた。

 

「ああ、腑に落ちたよ。私の960はとっくに何処にも居ないんだ。目の前のお前は960の皮を被った違う生き物なんだろう。だから私の意にそぐわない言葉を発するし行動を取るんだ。だって960じゃないんだもの。それなら仕方が無いし話す事もないし躊躇う事も無い。私はクロウなんて奴と知り合いでも何でもないんだから」

 

…到底、まともに話し合いが出来る状態ではない。頭を冷やして貰わなければ、このままでは取り返しがつかなくなる。

 

やむを得ず鎌を手に取ったクロウを見た管理者は、一瞬目を見開いた。瞼を閉じ、軽い溜息を一つ吐く。

 

「やっぱりお前は偽物だ。960は、私に武器を向けるなんて愚かな事をしない」

 

管理者は微笑んでいた。冷酷に、無慈悲に。

 

「二人まとめて殺してやるよ」

​Chapter.4

管理者が戦っている姿を、クロウは見た事が無かった。戦えないのだとずっと考えていた。

 

華奢な体躯からは運動が苦手そうに感じられるし、本を読むという大人しい趣味の持ち主だからだ。そして死神を管理する事に徹し、人間界には一切出向かず、クロウとリリィの命も死神を介して狙っていた。

 

だからこそ、先程培養器を破壊したのが管理者であるという事が信じられなかった。結果的に認めざるを得なかったとはいえ、だ。

 

 

規格外の力に任せ、破壊の限りを尽くそうとする戦い方。この細腕の何処にそんな筋力が備わっているのかと、誰もが猜疑心に駆られるだろう。見た目と力が相反していてチグハグで滅茶苦茶だ。

 

何よりも、傷付く事を全く厭わない捨て身に近い動きにゾッとする。避けるという概念が無いのだろうか、クロウの攻撃を何度も食らっている。

 

なのに、体は綺麗なまま。怪我が治っていくからだ。あの少女の様に何事も無かったと言える速度とまではいかないが、怪我をしても​短時間で元に戻るという現象は普通とかけ離れている。

 

「貴方は…一体…」

 

疑問に頭を埋め尽くされたクロウの呟きを、管理者が拾う。

 

「怖い?」

 

攻撃の手をぱたりと止め、ぽつりと投げかけられた問い掛け。

 

「化け物だって、思う?」

 

儚げで縋る様な瞳にクロウは動揺し、思わず鎌を下げる。培養液がぱしゃりと飛沫を立てた。

――――静寂が包み込む。

 

「泣いているの…?」

 

沈黙を破ったのはリリィだった。

 

管理者が浮かべているのは笑みであって、決して泣いてはいない。しかし感情に敏感なリリィがそう言ったのだから、的外れで無い事は明白だった。

 

「お前に話し掛けたつもりはない」

 

「…ごめんなさい」

 

拒絶の意思表示に、リリィは大人しく引き下がる。意地を張っても逆効果だと判断したのだろう。

 

「クロウ…わたしでは駄目みたい。管理者さんは、あなたの言葉を待っているわ」

 

リリィの言葉に頷き、クロウが口を開こうとした瞬間。

 

管理者は、羽織っていたコートをクロウの視界を塞ぐ様に投げつけた。培養液を吸ったせいか、まるで鉛のように重くなっている。

 

「ぐっ…!?」

 

コートを振り払ったタイミングで、馬乗りになった管理者に片手で首を絞められた。クロウは顔を真っ青にしたリリィが近寄ろうとするのを制止してから、どうにか引き剥がそうと試みるが…ビクともしない。

 

「油断したね」

 

怪しい笑みをたたえながら、管理者は空いた方の手で鬱陶しそうに前髪を掻き上げた。

 

「…私は化け物だよ。不老不死の化け物。愚かな人間達に作られた紛れもない化け物だ」

 

まるで自嘲するかのように吐き捨てる。化け物と口にする度、苦痛に苛まれるように眉を顰めながら。

 

「自分が一番分かってる。だから答える必要はない。何も言わなくていい。お前に拒絶されたら私は…」

 

管理者の瞳から零れた涙が、クロウの頬に落ちる。

 

「…頼む、このまま死んでくれ」

 

遠のく意識を必死に手繰り寄せている最中、ふと頭を過ぎった。

――――自分が死ぬ事で管理者が喜ぶのなら、これで良いのかもしれない。

しかし、その考えは即座に否定する。じゃあどうして管理者はこんなにも辛そうなんだ。本当に死んで欲しいと願っているのだろうか。

 

否……否。

 

言葉で伝えられないのなら、せめて。と、受け入れる意思の証明として管理者の背中に手を回そうとしたが、限界を迎えた体は言う事を聞いてくれなかった。

 

意識が飛びそうになった、その時。

 

 

「まあまあまあ、落ち着いて」

 

 

あの少女だ、とクロウはぼやけた視界の中で思う。

 

また窮地を助けられた。あの言葉に嘘は無かったという事なのだろうか。

 

「邪魔をするな…イオニア…」

 

しっしと管理者を追い払い、少女…イオニアはクロウを助け起こす。

 

「大丈夫かい?」

 

「…何とか」

 

激しく咳き込みながらも立ち上がろうとするクロウを、リリィが支える。するとイオニアは二人を庇う様に管理者に立ち塞がり、わざとらしい調子で非難し始めた。

 

「酷い事をするなあ、キミは!クロウが死んでしまう所だったじゃないか!」

 

「死んでしまうも何も殺すつもりだったんだ。早くどけ」

 

「あは!どいた所で結局迷うんだろ?殺すつもりだったなら、何故こんなにも時間が掛かっているのか理解に苦しむねぇ」

 

管理者の表情から笑顔が消え、それだけでなく苛立ちを込めたらしい舌打ちをした。見た事のない管理者の姿にクロウは呆気に取られる。一方で、イオニアは笑みを深めていた。

 

「はいはい、お遊戯はもうおしまい。お楽しみはここからさ」

 

管理者は怪訝そうにイオニアを睨み付ける。彼女はそんな視線が愛おしいといった様子で、慈しみを込めた瞳で見つめ返す。それからドレスの裾を両手でちょんと摘み、ダンスの前の淑女の如く流麗に一礼した。

 

「これからボクが語るのは、紛れもない真実だ。女神のプライドを賭けて断言する」

 

静かで冷たい声と裏腹に、ゆったりと上げられた顔が作っていた表情は、極上の笑みだった。

 

「これは、可哀想な実験体の物語」

 

 

 

むかしむかし、冥界には人間が住んでいました。

 

人間達の中には、不老不死になりたいと願う者がいました。その人間達はいつしか集まって、不老不死の研究を始めました。研究には実験が付きものです。ですが不老不死の実験は残酷なもので、同じ人間を使う勇気はありませんでした。そこで考えたのです。人間を模した実験体を作って使用すればいいと。

それからというもの、沢山の実験体が生みだされては殺されていきました。死体で山を作ったら、きっと天まで届いたでしょう。

そうやって長い長い時が経ったある日、その研究を女神様が知ったのです。女神様は大層気に入りました。どんなに足掻いたって望んだって夢見たって実現不可能なのに…今回こそは、今回こそはと無様に頑張って罪なき命を散らしていたのですから。

女神様はこの研究が成功したらどうなるのか、見てみたいと思いました。そこで、生みだされたばかりの一人の実験体に目を付けました。女神様は、実験体を自分と同じ不老不死の体にこっそり作り替えましたが、人間達は勿論、本人すらも気付いていません。

女神様の思惑は成功しました。研究が成就したと錯覚した人間達は無邪気に歓喜しました。けれどパーティが開かれる事はありませんでした。実験をくぐり抜けて憎悪を蓄積させた実験体が、それを許す筈がありません。とはいえろくに運動もした事の無い非力な実験体ですから、いくら不老不死とはいえ大勢に押さえ付けられてしまえば何も出来ません。それではつまらないと、女神様は実験体に力を与えました。

実験体は、大嫌いな研究施設も研究者達も壊し、果てには冥界をも壊そうとしました。

 

女神様に人間達は口々に言いました。

「どうか助けて下さい!」「まだ小さい子供がいるんです!」「なんでこんな目に遭わないといけないんだ!」「やりたい事が沢山あるのに!」「怖いよう!」「痛いのは嫌!」「助けて下さい!」「助けて下さい!」「助けて下さい!」「助けろよ!」「お前があの化け物を作ったんだろ!」「責任を取れ!」

これは大変です。

 

女神様は実験体の意識を奪い、その隙に冥界をコピーして作った新しい世界に人間達を避難させました。

 

ですが人々はそれだけでは安心出来ませんでした。恐ろしい化け物が此処にやって来るのではないかという恐怖で、夜も眠れません。

 

無力でちっぽけな存在に死にたくない一心で必死に惨めに懇願された女神様は、願いを叶えてあげました。実験体に冥界から出られない呪いを掛けてあげたのです。人々の顔には笑顔が戻っていました。

こうして世界の平和は何十年何百年何千年経った今も保たれているのです。

 

 

「めでたし、めでたし」

 

話し終えたイオニアは、満足そうに微笑んだ。

 

一体今の話の何処にめでたい要素があったのか、クロウには分からなかった。どう考えたって悲劇だ。だって、これではあまりにも報われない。

 

「…実験体はどうなったんだ」

 

研究の為に生み出されて女神に不老不死にされて残虐な実験に耐えた末に冥界に閉じ込められた実験体。それが本当に事実だというなら…心当たりがあるのはただ一人だった。

 

「目の前に居る本人に聞いてみたらどうかな」

 

イオニアは、茫然自失といった様子で立ち尽くしている管理者を見つめて付け加える。

 

――――やはり実験体とは管理者の事だったのだ。

 

傍らのリリィも言葉を失ってしまったらしく、苦しそうな表情を浮かべながら、胸の前で手を固く握っている。

 

「ま、頭の整理やら何やらで忙しいだろうから、ボクが代わりに教えてあげるね」

 

頼んでもいないのに、イオニアは嬉々として語り始めた。

 

 

冥界に独り取り残された実験体は、暫く自暴自棄になった後で、一つの目的を見出しました。

それは、自分を不老不死の体で生み出し散々な目に遭わせた挙句冥界に閉じ込めた人間達へ復讐する事でした。

 

ですが、そうは言っても冥界から出られない以上は何も出来ません。実験体は困っていました。それを見兼ねた女神様は実験体の前に姿を現し、教えてあげました。冥界から出られないなら、代わりを作ればいいのだと。

女神様に色々な事を教わった実験体は、やがて自分そっくりのクローンを沢山作りました。女神様がどうしてか問うと、自分以外は信用出来ないからと言いました。いくら見た目が似ていても心は別物だよと女神様は言いました。それなら心なんて持たせなければいいと実験体は言いました。

実験体は作ったクローン達を死神と名付けました。名前の付け方が分からなかったので、代わりに識別番号を割り振りました。

 

実験体は冥界に縛られるという制約の無い死神達を、人間界に送り出しました。女神様は期待していました。きっとこの死神を使って人間界をめちゃくちゃにするつもりに違いありません。

 

だけど、実験体の思惑は違っていたのです。死んだ人間の魂を集めさせて、新しい死神作りの材料にする。その繰り返しでした。女神様はガッカリしました。どうしてそんなつまらない事をやるのか理解出来ませんでした。

 

すると実験体は言いました。

 

終わらない命を持っているのに一瞬で復讐を成してしまったら、何をして生きていけばいい、と。

 

永遠の命を持て余し常に暇潰しを探して世界を渡り歩いていた女神様には心当たりがありました。女神様はこの憐れで哀れで頭の良い実験体を気に入り、飽きるまで観察する事にしました。

やがて気が遠くなる程の月日が経ち、識別番号960という死神が生まれました。

他の死神と違い身体の成長が中途半端で止まってしまった960は、言うまでもなく目立つ存在でした。そして身長では勝てなくとも、他の死神と頭一つ抜けた長所がありました。960は戦いのセンスに優れていたのです。

960に一目置いた実験体は、心を持ってしまった死神の処理を一任する事にしました。960は従順に了承してくれました。淡々と任務をこなし続ける960を、実験体はいつしか信頼するようになりました。

しかしある時、女神様の口から知ってしまったのです。960が人間と逢瀬を繰り返している事を。

 

 

 

「黙れ」

 

「自分のお気に入りが人間に奪われたと知った実験体は」

 

「黙れ」

 

「特例と称してその人間を消そうとしました」

 

「黙れ!!!!!!!!!!!!!!」

 

 

――――号哭。

 

目を逸らしたくなるくらい痛ましいのに、クロウは管理者から目を離せずにいた。逃げてはいけないと思ったからだ。

 

自分がやってしまった裏切りは、管理者の心をどれ程ズタズタに引き裂いてしまったのだろう。

 

知らなかったから、ではただの言い訳に過ぎない。唯一信頼していた大切な相手が知らない所で知らない誰かと幸せになっていたのだ。自分に置き換えて考えたら、苦しくて苦しくて、息が詰まる。

 

「だから、わたしの命を狙っていたのね…」

 

リリィが呟く。可哀想にという同情ではなく、そんな事で殺されかけたのかという憤りでもない。管理者の心に寄り添い考えた結果、納得という結論に至ったという様子だった。

 

クロウは、俯いたまま微動だにしない管理者に、掛ける言葉が見つからなかった。そもそも何か言う資格が自分にはないと思った。逡巡しているその隙に、イオニアは笑顔で捲し立てる。

 

「元々不老不死として生まれてしまったのだと思っていたのにそれがボクの仕業だったと知った気分はどうだい?自分を冥界に閉じ込めたのは人間だと信じて復讐していたのにボクがやったのだと知った気分はどうだい?復讐の協力者だった筈のボクがそもそもの原因だったと知った気分はどうだい?ねえねえねえねえ教えてくれよ!」

 

本人ではないのに耳を塞ぎたくなる程の言葉の刃だった。管理者は返答しなかった。当然だ。今の感情を表現出来る言葉なんて、この世に存在しないに決まっていた。

 

イオニアはそんな管理者の顔を覗き込んでから、心底楽しそうに感想を述べる。

 

「あはは!いいね!ボクを殺したくて堪らないって目だ!」

 

恐らく、管理者の中に渦巻いているのは本当の殺意だろう。クロウに対しての迷いが込められた殺意とは違う、激しい憎悪を燃やした本物の――――…。それでも尚イオニアに手を出していないのは、分かっているからだ。

 

絶対に敵わないと。

 

「このネタばらし、いつしようかずっと考えていたんだよ。そしたらまあ良いタイミングでキミのお気に入りが人間の女の子と偶然出会って仲良くなって相思相愛になるもんだからさぁ!え、こんなに運が悪い子他にいないだろ!?って!あは!あははは!可哀想で可愛そうで最高だなぁ!!」

 

「もう、やめてくれ」

 

静かな声に、腹を抱えて笑っていた女神はぴたりと動きを止めた。

 

「これ以上傷付けないでくれ」

 

発言者であるクロウを暫し見つめた後、イオニアは辛抱堪らない様子で噴き出す。

 

「キミが!他ならぬキミがそれを言うんだ!?あっは!この子がこうなった要因にキミは深く深く関わっているんだよ!?それ分かって言ってる!?」

 

「分かってる」

 

「ええ〜!分かってないだろ!自分を棚に上げてよくそんな事言えるな〜!はあ面白い最高過ぎる生かしておいて大正解だった…というかリリィ、キミはそれでいいの?嫌じゃない?クロウが二股しようとしてるけど?」

 

急に話を振られたにも関わらず、リリィは毅然とした態度で答えた。

 

「大切な人は、一人であるとは限らないわ。それに、二股という表現だと語弊が生じると思うの」

 

動揺の片鱗も無く、リリィは落ち着いた様子でクロウに訊ねる。

 

「わたしへの好きと管理者さんへの好きは、ニュアンスが違うよね」

 

「ああ。だが、それをどう伝えたら良いのか…」

 

感情を得て間もないクロウには、無理もない。それを察しているのか、リリィはクロウが気持ちを引き出せるようにと質問し始めた。

 

「ねえクロウ、わたしと居るとどんな気持ちになる?」

 

「安心する。同時に、心臓の鼓動が速くなる」

 

「そう…わたしもよ。管理者さんへはどうかしら?」

 

「安心感はあるが、鼓動は落ち着いたままだ」

 

クロウの返答を聞いたリリィは、温かな笑みを浮かべながらうんうんと頷く。

 

「わたしに抱いているのは恋心…管理者さんに抱いているのは愛情ね。どきどきするか、しないか…それが違いだと考えているわ」

 

リリィは胸に手を当て、瞳を閉じる。穏やかな表情と共に彼女は続けた。

 

「わたしも家族に愛情を持っているし、特別な存在よ。恋してるクロウも、愛してる家族も、どちらもとっても大切」

 

リリィはイオニアに向き直り、微笑みながら断言する。

 

「だから、わたしは全く嫌じゃない。クロウは間違っていないから」

 

「…ふふ、そうかい。どうやらキミはボクの想定以上にしっかりした子のようだね。もっとドロドロした昼ドラ展開を予想していたのだけど、見事に裏切られたよ。面白い」

 

黙っている間に頭が多少冷えたのか、イオニアは冷静な声で感心したようにそう言いながら、リリィの頭を撫でた。そして管理者を後目に、にんまりと笑う。

 

「まあ…クロウとリリィが納得していてもこの子がどうかっていうのは別の話なんだけどね」

 

 

暫く経ち、管理者はようやく長い沈黙を破り、ぽつりと呟いた。

 

「…疲れた」

 

強ばっていたであろう足が崩れ、膝立ちになる。持っていたコートに顔をうずめながら、ぽつりぽつりと独り言をするように心情を吐露していった。

 

「一人は嫌だった。でも誰も信じられなかった。死神ですら信用出来なかった。感情を得た死神はいつだって命令に背いて私の元を去っていく。信用したら裏切られた時に辛い。なら、もう一人でいいと思った。でも960の事は信じたくなった…信じてしまった。私は命令する以外でのコミュニケーションの取り方を知らなかった。愛し方を知らなかった。生まれた時から命令されていたからそれが普通だった。生まれた時から愛されなかったからそれが普通だった。だから960がもし感情を得てしまったとしたら私の元に繋ぎ止めておける自信がなかった。実際960はリリィを選んで私の命令に背いて敵になってしまった。不老不死で良かったと思った事は一度もない。化け物だって分かったら960は私の元から居なくなってしまうかもしれない。考えただけで怖かった。絶対にバレたくなかった。でもバレてしまった。どれだけの時が流れても終わりが来ない人生に希望を感じた事はない。普通に生きて死ぬ事がどれだけ憧れだったか。けれどそういうものとして生まれてしまったのだからと思えば諦めもついた。でもそうではなかった。私は最初から不老不死だった訳ではなかった。なんで私がこんな目に遭わないといけなかったんだ。他にも実験体は沢山居たのに。なんで?なんで?なんで?もう疲れたよ。もう嫌だよ。誰も私を助けてくれない。誰も…」

 

――――それは包み隠さず明かされた、悲痛な本音だった。

 

クロウは管理者の傍に歩み寄り、そっと抱き締める。抵抗はされなかった。

 

初めて密接に触れて、今更気付く。管理者からは鼓動を感じる事が出来ない。本当に不老不死なのだ。嘘であって欲しかったイオニアの話は、紛うことなき真実だった。

 

「…ちゃんと、今の俺を見て下さい」

 

管理者は恐る恐るといった調子で、コートから顔を上げる。

 

「貴方の事を嫌っているように、見えますか」

 

「…見えない」

 

「貴方は俺の事、嫌いになってしまいましたか」

 

「…なってない」

 

消えそうな程か細い声だったが、クロウの耳にはちゃんと届いた。

 

「嬉しいです。貴方は、かけがえのない大切な人だから」

 

管理者は一瞬目を見開いて、それから再び俯いた。

 

「…私を、人扱いするんだね。実験体でもなく、化け物でもなく…」

 

クロウが抱き締める力を強くすると、管理者は小さく笑った。

 

「ばか。苦しいよ」

 

「…ごめんなさい。沢山貴方を傷付けてしまった」

 

「私の方こそ、大人げなかった。短期間でここまで立派になったお前に比べて…情けないよ。ただ長生きするだけでは、成長は出来ないね」

 

穏やかな声。いつもの管理者だ。だけどいつもより何処か、吹っ切れたような…全て曝け出した開放感に満ちているような…そんな気がした。

 

「これからも、一緒に居てくれますか」

 

頷いた管理者を、クロウは黙って抱き締め続ける。そんな光景に目を丸くしているイオニアの隣で、温かく見守っていたリリィが、祝福の言葉を贈る。

 

「仲直り、出来たわね」

 

それを境にイオニアから、笑顔も余裕も消えた。取り乱した女神は矢継ぎ早に言葉を繰り出す。

 

「え?え?え?それ演技なんじゃないの?油断させてクロウを殺してリリィも殺すんじゃないの?そうだろ?何故何もしないんだ?裏切り者だぞクロウは!泥棒猫だぞリリィは!なんで笑顔でほっこりしてんだよ!全部知って狂って堕ちて何もかもぶっ壊して正気に帰って絶望の底に沈んだ後でボクに殺して下さいって懇願するのがハッピーエンドだろうが!やだ!やだやだやだやだ!面白くない!こんなバッドエンド認めない!ボクの思い描いてたシナリオじゃない!!」

 

管理者はリリィを手招きした。彼女は大人しく従う。殺す為に呼んだのではないと分かっているからだろう。

 

「…私はお前にどうしたって勝てない。殺したい程に憎いお前を殺す事が出来ない。だけど唯一、お前を心底不快にさせる方法があるんだよ。歪んだ感性を持ったお前は絶望を娯楽にする…それなら」

 

小さな二人を抱き寄せ、管理者はイオニアに言い放つ。

 

「全員で幸せになればいい」

 

クロウとリリィは顔を見合わせた。言葉を交わさずとも互いの意図を汲み取り、管理者に体を預ける。それは、女神への反逆に賛同したという事。

 

管理者は瞼を閉じ、小さな声で二人に感謝を告げてから、噛み締めるように呟く。

 

「私はもう一人じゃない。もう…独りじゃない」

 

するとイオニアは燃え滾っていた炎が瞬時に消え去ったかのように冷静さを取り戻し、表情が消えた顔で吐き捨てた。

 

「飽きちゃった」

 

三人に背を向け、やれやれと首を竦める。

 

「もういいや。別の世界に行って新しい玩具を探すよ」

 

「それは残念だな。二度とその面を私達に見せるなよ」

 

笑顔で別れを告げた管理者に、イオニアはわざとらしく振り向いた。露骨に嫌そうな顔をした管理者に意地悪く微笑む。

 

「…ボクにはポリシーがあってね。飽きるまで楽しんだ後は褒美を与える事にしているんだ」

 

怪訝そうにする管理者へ​、イオニアはこう告げた。

 

「キミの願いを一つ叶えてあげるよ」

​Epilogue

「オルカ」

 

かつて管理者と呼ばれていた人物は、読んでいた本から視線を外し、顔を上げる。

「リリィを連れて来たぞ」

 

クロウの傍らに立っているリリィが、朗らかに微笑む。

 

「こんにちは、オルカ。此方の生活にはもう慣れた?」

 

管理者…オルカは、閉じた本の上で肘をつきながら答えた。

 

「想像以上に騒々しくて、ちょっと疲れてる」

 

それを聞いたクロウがオルカに問い掛ける。

 

「今の冗談か?」

 

「んー。本音を入り混ぜた冗談って所かな」

 

「あら、クロウも言葉遊びが分かるようになったのね」

 

「そうみたいだよ。理解出来なくてきょとんとしてた頃も、中々に愉快だったけどね」

 

「どういう意味だオルカ!」

 

むくれるクロウを適当にあしらうと、ますます頬を膨らませた。するとリリィがその頬をつつき始める。オルカも便乗してみた所、すっかり拗ねたクロウは外に逃走してしまった。リリィが謝りながら、連れ戻そうと後を追って部屋を出て行く。

 

その様子を見届けた後、オルカは窓の外に目をやった。行き交う人々を見下ろしながら、瞳を細める。

 

「…疲れるのに、何でだろう。不思議と喧騒が心地良い」

 

 

今のオルカには、冥界から出られない呪いは掛かっていない。イオニアに願いを叶えて貰ったからだ。

 

不老不死を解いて貰おうとも考えたが、今まで蓄積された時間が即座に身体に反映されると聞いて諦めた。

 

何千年も生きているのだ。何が起きるかなんて考えるまでもない。これからだという時に死んでしまったら、それこそイオニアの思うツボである。

 

ではどうするかと出した結論が、人間界へ行くというものだった。

 

惰性で続けていた復讐はもはや意味も無ければやる気も霧散しているし、長い退屈を紛らわせるには丁度いいと思った。

 

何より、死神であるクロウは不死ではないにせよ寿命がある訳でもない。一人にならないなら不老不死を妥協出来る、という結論だ。

 

そうして後にした冥界は、クロウとオルカが人間界に降り立った途端、誰も居ない事で存在意義を無くし消滅してしまった。同時に、人間界に歓迎されたらしい二人は、人間に視認されるようになった。

 

生まれ故郷が無くなったにも関わらず、クロウとオルカは特に未練もなく人間界での生活を始めた。とはいえ見た目が変わらない以上、一箇所に留まると不都合が生じるのは明白だった。

 

故に各地を転々とする事にした。現在は、所謂旅の最中だ。

 

病弱だったリリィは、少しずつだが外に出られる程には元気になってきており、度々クロウに連れられて顔を出してくれる。

 

戸籍も金もない二人の代わりに宿泊費用を出してくれているので、リリィとその家族には本当に頭が上がらない。家族には挨拶も済ませていて、大人になったら三人で旅をすると約束していた。

 

オルカという名前は、リリィが考えてくれた。挨拶の前の日の事だ。管理者と名乗る訳にもいかないし、これから生きていく上で名前が無いのは不便だろうというのが経緯だ。

 

呼ばれる度に、自分が受け入れられていて、存在を認められている気がして、嬉しかった。

 

 

「オルカも手伝って!」

 

窓の外からリリィの声が聞こえる。どうやら苦戦しているようだ。追いかけっこする二人を、すれ違う人々が微笑ましそうに見ていた。

 

「今行くよ」

 

椅子から立ち上がり、部屋を後にする。

 

喧騒に身を投じる。晴れやかな笑みを携えて。

――――生きていく。

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